約 15,096 件
https://w.atwiki.jp/dokkyou/pages/14.html
[学部:経済学] [科目名:経済学b] [教員名:野村 容康] [授業日時:火1] [出欠確認の有無(授業):無し(授業でのみプリント配布)] 筆記 論述1 用語説明8-10 選択4-5 論述 1、ケインズの乗数理論の枠組みにおいて、均衡予算の政府支出乗数が1になる理由は? 2、IS-LM 分析を通じて、拡張的な金融政策の有効性について 3、我が国の家計貯蓄率の低下の要因 用語、選択 セイの法則 資源配分機能 所得再分配機能 経済安定化機能 帰属所得 現物給与 ライフサイクル仮説 恒常所得仮説 資本の使用者費用 ペンロース効果 乗数効果 均衡予算乗数 流動性選好説 流動性の罠 建設国債 プライマリーバランス マンデル・フレミング効果 国際収支表
https://w.atwiki.jp/kubo-zemi/pages/637.html
トップページ 新聞論評 新聞論評 2009 新聞論評 20090907 This Page 2009年8月24日 締 切 新聞論評 学籍番号1914074 氏名 中村信也 1.新聞情報 見出し グーグル、「クラウド」軸に積極買収 発行日 2009年08月29日 新聞社 日本経済新聞、(朝刊) 面数 11面 2.要約 野村総合研究所は28日、約200億円をかけてデータセンターを新設すると発表した。企業がソフトやシステムをネット経由で共用する「クラウドコンピューティング」の中核拠点としても活用する計画だ。(91文字) 3.論評 野村総研は現在、横浜市に3カ所、大阪市に1カ所のデータセンターを所有する。新データセンターは首都圏に建設し、2012年度に完成する予定だ。これまで通りアウトソーシングの拠点とするほか、共有のシステム基盤を提供するクラウド型のサービスにも利用する。証券会社などへ提供している共有システムのサービス提供ノウハウを生かし、幅広い業界向けの共用システム基盤を構築しサービス展開していく予定だ。 新たなデータセンターの建設を決断したことはとても良いことである。それは、データセンターを利用した企業向けのシステムの管理・運用代行の需要は、企業のアウトソーシング需要が堅調なため、今後も伸びていくと考えられるからだ。約200億円もかけたデータセンターはクラウドコンピューティングの中核拠点となり、大規模でもあるため、多くの企業がシステム構築費用などをコスト削減できるようになるだろう。また、幅広い業界に向けた共用システムから、企業と企業による今までになかった新たなサービスが生まれることが期待できる。(437文字) 4.コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/zawahey/pages/185.html
2008 秋 工業経済論B 野村宗訓 60分 持込不可 次から1問を選び、その番号を書いて論述しなさい ①公益事業に対して政府介入が必要と考えられる理由 ②電力事業がについて、競争を導入するための手法と特徴
https://w.atwiki.jp/kojirosoftware/pages/46.html
勤務地はどこ?転勤はある? 本社は東京にあります。事業所は札幌、東京、横浜、名古屋、大阪、福岡などです。 メインオフィスとなる東京本社の最寄り駅は地下鉄大手町駅です。 またJR東京駅からも徒歩10分ほどでアクセスできます。 昇給はある?賞与は? 昇給は年1回、4月にあります。 また賞与も年2回、6月と12月にあります。 残業はどれくらいある?残業代はちゃんと出る? 残業はあります。 月平均時間は27時間ほど。 フレックスタイム制を導入しており、専門職昇格後は裁量労働制となります。 残業代については現在、調査中です。 福利厚生はどんな内容? 野村総合研究所は、各種保険完備となっています。土曜・日曜の完全週休2日制、祝日、年末年始休暇の他、1週間連続で取得できる暑中休暇、リフレッシュ休暇、年次有給休暇などがあります。 その他の手当て・福利厚生については下記の通りです。 ■交通費全額支給 ■住宅手当 ■財形貯蓄 ■保養所あり ■産前・産後休暇 ■マタニティ休暇 ■パートナー出産休暇 ■子の介護休暇 ■育児休業 ■時短勤務制度 ■事業所内保育所 など 会社の社風や風土は? 野村総合研究所は、徹底して顧客の立場に立ち、そして強いチームワークによって様々な分野・領域で大規模プロジェクトを成功させています。 これらの強みを更に磨き、高品質で先進的なサービスを提供。顧客並びに社会から高い信頼を得ています。 また、全ての付加価値の源泉である「人」が最も重要であると考えています。 そんな同社には「人」を支援する仕組みや各種制度があります。 ■人を育てる「教育制度」 プロフェッショナルの育成を支える人材育成の仕組みがあります。 ■人を活かす「評価制度」 同社は採用時も、キャリア形成時にも、日本型雇用システムにとらわれない、プロフェッショナルに相応しい制度と考え方を導入しています。 野村総合研究所は100%人が資産の会社であるため、人を活かすことを最大の使命と考えているようです。 ■働きやすさを支える「福利厚生」 意欲のある人材のサポートを目指して、どんな人でも働きやすい環境を整えることを心がけているようです。 ■女性社員の活躍を推進 女性のキャリア形成サポート、仕事と育児の両立支援、企業風土の醸成を3つの柱として、2008年より働き方をみんなで考えています。 ■働き方改革への取り組み 同社では20年以上前から、時間に捉われない働き方、場所に捉われない働き方、健康経営など先進的な働き方に取り組んでいます。 心身共にいきいきと働き続けることを目指して、このような働き方を実践しているそうです。 会社の戦略やビジョンは? 長期経営ビジョンの「Vision2022」は、野村総合研究所の企業理念を実現するため、2022年度末までに描いた物語です。今までの強みとこだわりを基に、意味のあるイノベーションへと果敢に挑戦する企業となります。3つの強みを磨き、更に進化していきます。 ■洞察力 業界の動向や技術だけでなく、これからはもっと深く、顧客のビジネスイノベーションをリードする洞察力を深めていきます。 未来市場を見極め、科学技術を駆使して、ビジネスのポテンシャルを具現化。 ■共創力 顧客のビジネスに立脚し、多くのパートナーと共に問題解決を実現する共創力を更に進化させていきます。 より多くの事をより多くの人から学び、先進的な研究機関及び専門企業など、野村総合研究所にはない強みを持っている仲間と思いを共有。組織や言葉、国境を超えて協働します。 ■実現力 顧客のビジネスに寄り添い、効率的な業務を実現できるシステムを提案・運用します。更に顧客の事業の付加価値を伸ばす「ビジネスIT」の力が試されます。顧客のビジネスから発想を構築、本当に顧客のためになるシステムを構築・運用・改善し続けます。 会社の職場環境は? オフィス以外でも気軽に話し合える環境が整い、成長の機会を与えてくれます。 昼はオフィスを飛び出て同僚とランチを楽しんで息抜きし、午後の仕事に集中しているようです。 求める人物像・選考基準は? 野村総合研究所と応募者のベストマッチングを目指して採用しているようです。 応募者のやりたい事や価値観・考え方が野村総合研究所に合致しているか。 また、専門知識を吸収し、コミュニケーション能力が一定レベルあるかどうかを見ているようです。 ユーザー系ソフトウェア会社の記事をもっと見る! アイスタディ株式会社の評判 朝日ソフトウェア開発株式会社の評判 株式会社アルネッツの評判 株式会社ヴィンクスの評判 エフ・エスソフトウエア開発株式会社の評判 株式会社教育ソフトウェアの評判 株式会社ジャステックの評判 ゼッタリンクス株式会社の評判 ニッセイ情報テクノロジー株式会社の評判 みずほ情報総研株式会社の評判 ワークスアプリケーションズ株式会社の評判 株式会社SCSKの評判
https://w.atwiki.jp/hasetarou123/pages/22.html
野村一樹 (県立三戸高等学校) 成績 登板 勝利 敗戦 ホールド セーブ 防御率(投球回、失点) 年棒;1年度 1000万円 特殊能力(特殊ポイント):なし(0ポイント)
https://w.atwiki.jp/zawahey/pages/165.html
2008 工業経済論A 野村宗訓 60分 持込不可 次から1つ選び、書きなさい ①ファンドによる公益事業の買収について ②イギリス鉄道政策について、問題点 ③混雑空港のスロット制約の特徴について ④プライスキャップの内容と、いい点、悪い点
https://w.atwiki.jp/ycubbc-w/pages/14.html
8/25 今週末から、いよいよ関東リーグが始まります。
https://w.atwiki.jp/zensensyu/pages/2773.html
もしも野村哲也が○○をリメイクしたら 667 名前:水先案名無い人:2009/05/20(水) 23 42 57 ID FN8BfEpN0 もしも野村哲也が最大トーナメントををリメイクしたら ・「ジャガッタ殺しましょう、天内出しましょう」 ・独歩は金髪ツンツンヘアーで無口で鬱 ・銀髪ロン毛美形の超えなければならないジャック・ハンマー ・黒髪巨乳でウジウジした性格(または不思議ちゃん)の烈海王 ・「ただいま」「若き王者が帰ってきたッ どこへ行っていたンだッ チャンピオンッッ 俺達は君を待っていたッッッ範馬刃牙の登場だ――――――――ッ」 ・シルバー柔術、拳法、空手、ボクシング、柔道、レスリング、ムエタイ、相撲、テコンドー、キック・ボクシング、サンボetc ・紐切りの練習 ・「準決勝やめちゃえば?」「できない、できないよ……」→世界一ピュアな護身 ・「お礼にタイマン一回分」 ・愚地親子は厨臭い打撃技を扱う ・非ムキムキ系設定、老人キャラは全てカット(もしくはイタガキッシュ化) ・ロシアやタイやアメリカの国籍のキャラは最低でも中国系に、んでかませ化 ・主題歌は猪狩完至 ・「実はリーガンのモデルは僕(の初恋の人)なんですよ」 ・鎬昂昇と鎬紅葉がホモ臭くなる ・超A級喧嘩師の異名を持ち実戦を自在に操る華麗なる花山薫 ・マウント斗羽「リザーバー?」 ●●「(ううん)、到着が遅れてる。」 もしも野村哲也が○○をリメイクしたら http //jfk.2ch.net/test/read.cgi/gsaloon/1238763278/ 関連レス 668 名前:水先案名無い人:2009/05/20(水) 23 57 48 ID wscQP9km0 独歩で吹いて烈さんでトドメを刺されたんだがどうしてくれる コメント 名前
https://w.atwiki.jp/hontati/pages/16.html
野村重存「水彩スケッチ」の教科書 内容紹介 人気画家・野村重存が「水彩スケッチ」のコツを徹底解説! 初めての人にも、思うように描けないと悩む人にも必ず役立つ、水彩スケッチ入門書の決定版! 【本書の3つの特徴】 (1)圧倒的にわかりやすく「水彩スケッチ」の技法を解説 テーマにあわせた描き方、ポイントとなる筆の使い方や塗り方を拡大写真で紹介。 スケッチから着色までの連続写真など、「水彩」スケッチの基本を圧倒的にわかりやすく解説する。 (2)描き方・着色技法が身につく新型ドリルつき 巻末のドリルでは「身近な静物」「一本の木」「古民家」「町並み」「山」「渓流」「人物」の 描き方と着色技法をお手本を見ながら実際に練習できる。 (3)充実した用具レビュー特集 用紙や筆、絵具などの使い方、それぞれの種類による違いや特徴を紹介。 今までの入門書にない詳細な解説が、あなたの描きたいテーマにあわせた道具選びを可能にする。----amazon引用---- 書評 メイキングがメインなので全くの初心者には厳しいと思われる。 なぜならメイキング時には詳しい説明はなく、写真と短文でさらっと進んでしまうからである。 しかし本屋で購入の際、立ち読みした別の水彩入門書と比較した場合、こちらのほうが親切に感じた。 些細な違いが大きく印象を変えたのだと考えられる。 そのメイキング紹介時の些細な違いはというと、本書はメイキング進行時ときたまパレットの表示をしてくれて 何と何を混ぜたのかの解説が入る。 この部分は初心者にとっては大事な参考にできる部分ではないかと感じた。 そして道具のレビューも23ページ近く割いており親切な設計になっているのではないかと思う。 そして練習用ドリルにより模写という行為を自然とさせようという点には好感が持てる。 これは入門書なので経験者が買っても得るものは何もないと思う。
https://w.atwiki.jp/isono116/pages/34.html
1500勝の偉業 ~野村監督を支えたID野球 現役時代、打撃不振に陥った時「ピッチャーは、投げる際に既に球種を決めており、球種によって体の動きに微妙な変化が出る」と記したテッド・ウイリアムズの「バッティングの科学」という記述と出会い、ピッチャーの癖を研究するようになった。これが後の野村ID野球の基礎だったという。 投手の投球ゾーンを9×9に分割した分析や、打者の4つのタイプ分けなどで有名なID野球を生み出した野村克也監督は1935年6月29日は京都府立峰山高等学校出身。現役時代は南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズで活躍した。現役時代には歴代1位記録を含む数々のタイトルを獲得し、NPB界で最も著名な野球人の一人となる。引退後はヤクルトスワローズ、阪神タイガース、社会人野球のシダックス野球部監督を歴任し、現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めている。 父要一は野村が3歳の時に他界。丹後ちりめんの産地で周囲は裕福な家庭が多い一方、野村の家は貧しく劣等感にさいなまれる。母は病弱でガンも患うが、小学校1年から兄とともに毎日新聞配達をし父の戦友の助けもあって何とか生活した。貧乏な生活から脱却したいとの思いから、将来は歌手になろうとコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしていた。 中学卒業後は働くように母から言われるが、兄が大学受験を断念する等の取り計らいにより京都府立峰山高等学校に進学する。母に内緒で野球部に入部するがばれて退部するよう言われるも、顧問の取り計らいにより続けさせてもらう。貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り素振りをしていたと言う。野球部は大変弱く野村も全くの無名選手だった。 1954年南海に契約金0のテスト生として入団。大ファンだった巨人は藤尾茂という捕手が活躍していたため断念、捕手層が薄く高齢化していた南海なら一軍のレギュラーになりやすいと考えた。なおテストには落ちていたがキャンプイン前に合格者の一人が入団を辞退したことと、高校の顧問が手紙を送った南海の監督鶴岡一人(当時は山本姓)の「カベ(ブルペンキャッチャー)用にでも入れておけや」の一言で入団が決まったという。 当時の南海は鶴岡監督のもと、毎年優勝争いを繰り広げていた。その年のシーズン当初は出場機会がなく代打での初打席は三振、結局1年目は9試合で11打数無安打だった。シーズンオフにマネージャーに呼び出され戦力外通告を受けるが秋季キャンプ中に正捕手が交通事故、2番手捕手がトレード、3番手捕手が怪我をしたことで捕手不足となり残留。「もしここでクビになるようなら生きていけません。南海電鉄に飛び込んで自殺します」と辛抱強く交渉し担当マネージャーに「お前のようなやつは初めてだ、でも若いうちなら人生はやり直せる。お前は活躍できないんだぞ。俺の目は確かだ」と苦言を言われつつも何とか残ったと語っている。 1957年に山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。以降毎年のようにタイトルを獲得し、南海の黄金時代を支えた。南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になった。1962年、別当薫(毎日オリオンズ)の持っていたパ・リーグ記録のシーズン43本塁打(1950年)を抜く44号を記録。1963年には小鶴誠(松竹ロビンス)がこれも1950年に記録したシーズン51本塁打を破るプロ野球新の52本塁打を記録。1965年には戦後初めての三冠王に輝いた。しかし、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べると世間から注目されることは少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たなかった。1975年5月13日、野村が史上初の通算2500本安打を達成したときも、当日の観客はわずか6000人ほどであり、また拍手をしたのは数十人だったという。野村はこの試合後のインタビューで、「王や長嶋がヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草」と答えた。以後、「月見草」が野村の代名詞となった。 活躍の要因として、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことがあげられる。当時の鶴岡監督率いる南海は他球団に先駆けてデータを集め、活用する体制を取り入れており、データの収集に当たっていた尾張久次は日本プロ野球のスコアラー第1号ともいわれている。野村は蔭山和夫コーチらとともに、こうしたデータを試合展開や相手選手の観察結果とあわせて分析し、打撃にも配球にも生かした。投手の癖を盗み、ボールを投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけたことも活躍の要因となった。初期の頃はカーブが全く打てず、「カーブの打てないノ・ム・ラ!」や「カーブのお化けが来るぞ!」などと野次を浴びるほどだった。しかし、この欠点も投手の癖から球種を盗み、カーブを投げることを事前に見破ることで克服した。こうした能力は、徹底的な観察と各投手との駆け引きの中で身につけたものだった。なかでも西鉄のエースとして活躍した稲尾和久投手とは、野村が苦心を重ねて癖を見破れば稲尾はそれに気づいて対策を講じるという、ハイレベルの駆け引きを繰り広げたという。オールスターゲームでも、パ・リーグの捕手の地位を最大限に利用し、同リーグの投手のデータ収集を行った。稲尾は、この意図を見抜いていたため野村のサイン通りにボールを投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」だったと言われている。稲尾は「オールスターでは野村さんとの駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と後年語っている。 キャッチャーマスクをかぶったときには、相手チームの打者にささやきかけ、集中力を奪うこともあった。ライバル選手の私生活に関する情報収集のため、東京であれば銀座、大阪であれば北新地といった繁華街の高級クラブに頻繁に出向き、その店のホステスから常連客として姿を見せる選手の情報を仕入れるのが常だった。大杉勝男にささやきかけると「うるさい」と一喝され(大杉は10歳年下である)、張本勲には空振りと見せかけてバットで殴られ、王貞治は集中のあまり話を全く聞かず、長嶋茂雄に至っては違う話を持ちかけられたり、指導と勘違いして本塁打を放たれたりした。そのほか、東映の白仁天が対策のため耳栓を用いたが、かえって意識しすぎて打てなかったというエピソードもある。 1970年、最下位に終わって辞任した飯田徳治監督の後任として就任。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「四番」「捕手」「監督」の三重責を担うことになった。彼の著書によればこのときの年俸は、選手、監督分を合わせて、1億円を超えていたという。1973年には弱体化していたチームを見事に立て直し、リーグ優勝を果たした。当時、パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、実力ではかなわないと考えられていた阪急を退けての優勝だった。しかし、日本シリーズでは巨人に敗れ、巨人のV9を許す結果となった。 晩年肩が弱くなった野村は阪急の1番打者として活躍していた福本豊の盗塁を阻止するため、投手に素早いモーションで球を投げさせた。これが後のクイック投法の原型である。クイック投法は現在ではどの球団、更にはメジャーリーグでも採用しているが、最初に発明したのは野村だった。また、1976年に江本らとのトレードで阪神から江夏豊を獲得し、「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で1977年6月にリリーフ専任の投手へ転向させた。江夏はこの年、最多セーブ投手のタイトルを獲得するなど活躍。江夏のリリーフエースとしての活躍はプロ野球に大きな影響を与え、リリーフの役割が重視されるようになった。 1980年実働26年の選手生活で唯一の代打を送られたことを期に引退を決心、1981年のTBSを経て1983年からテレビ朝日の野球解説者、サンケイスポーツの評論家を務めた。この間1981年から6年余り、朝日新聞社の週刊朝日で「野村克也の目」を掲載。「ノムラスコープ」という野球中継では初のストライクゾーンを9分割したスーパーを使った配球の読み、打者・投手心理をズバリとついた捕手出身ならではの巧みな解説が評判になった。(たとえば、「次の球は、ここに投げておけば必ずファウルになる」とコースをピンポイントで解説すると、ピッチャーがそこに投げたら本当にファウルになった)。また、この時期は講演の依頼も殺到し、野村沙知代がオーナーを務める少年野球チーム港東ムースの監督に就任するなど公私に渡って活動した。 1989年の秋、ヤクルトの相馬和夫球団社長(当時)から監督就任の要請を受ける。南海時代に残っていた監督業への未練や、現場以外の多忙な生活から開放されたい一心でこれを承諾。監督に就任した頃のヤクルトは広沢克己、池山隆寛、荒木大輔、川崎憲次郎、長嶋一茂など素質に恵まれた人気選手が多く、ファミリー主義と明るいチームカラーでファンからも親しまれていた。しかし勝負への甘さがあり、長年にわたる負け越し・Bクラスの状態が続いていた。野村の暗い性格がチームカラーにあわないと懸念する声も多く、就任直後の12月に心疾患の疑いで一時入院すると早くも「野村の次の監督」を報道するマスコミも表れるなど、必ずしも順調な船出ではなかった。 そんななかデータを重視するという意味の「ID野球」(IDは、Import Dataを意味する造語)を掲げてチームの改革を打ち出す。主砲の池山や広沢らに三振を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。池山は本塁打数を野村就任前より減らすなど打者としては伸び悩んだが、広沢は後に打点王のタイトルを獲得する、また、ドラフト2位で入団した古田敦也らをレギュラーに抜擢、前年まで正捕手だった秦真司が外野手に、控え捕手だった飯田哲也を二塁手にコンバートした。しかし1年目は改革が勝利には結びつかず、開幕からの巨人戦は2試合連続のサヨナラ負け、3戦目に初勝利をあげるものの、その後も連敗を重ね結局5位に終わり、前年の4位を下回った。1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、Aクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得、二塁手から今度は中堅手へコンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁で注目を浴びた。高津に「日本を代表する抑えになれ、西武の潮崎のシンカーを参考にしてシンカーを投げろ」と助言し、その成長を促した。1992年に混戦を制してセ・リーグ優勝(日本シリーズは西武に3勝4敗で敗退)。9月には故障から4年越しで復帰した荒木の起用もあった。2連覇した後、日本一→4位→日本一→4位→日本一→4位と日本一と4位を交互に繰り返したが、スワローズ歴代でも屈指の名将と評価されている。 現西武ライオンズ監督である渡辺久信は、現役晩年の野村指揮下で過ごしたが一種のカルチャーショックを受けたと言う。野村ヤクルトは西武では考えられないほど、まず何よりミーティングに長い時間を費やした。そしてその形式も非常に独特のものであり、野村が延々と講義しながらホワイトボードに板書し、選手はそれを耳で聞いていては理解が追い付かないので、ノートをとって試合、オフ時間に見返す、というまるで学校の授業のようなことをしていたという。その講義内容自体も渡辺にとっては大きな衝撃であり、それは当時「常勝軍団」としてNPB界屈指のハイレベル野球を展開していた西武ですら実践していなかった深いものだったという。特に打球カウント別の打者・投手・捕手心理がその講義の中心で、カウントパターンに合わせた野村の緻密な独自理論は、渡辺に指導者・戦略としての野球の面白さを感づかせてくれるような機知に富むものであったという。 1999年、三顧の礼をもって阪神の監督に迎えられる。ヤクルト監督退任直後であること、阪神は例年生え抜きの人材を中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。野村TOP野球をチームのスローガンとして開幕を迎えると直後から快進撃を続け、6月9日には単独首位に立ち、野村の誕生日である6月29日に発売される予定だった、時価100万円の純金製野村監督像(通称・純金ノムさん)が前倒しで発売された(この純金像を最初に購入したのは、落語家の月亭八方)。また安芸キャンプにおける新庄剛志の投手兼任プランや、遠山奬志の松井秀喜キラーとしての再生、遠山と葛西稔のスイッチ(遠山 - 葛西 - 遠山 - 葛西、通称「遠山・葛西スペシャル」)などで話題を呼んだ。2000年オフに同年4番として自己最高の成績を収めた新庄がFAで大リーグへ移籍すると赤星憲広、藤本敦士、沖原佳典、上坂太一郎ら7人の俊足選手をF1セブンと名付けて若手育成を図った。 阪神監督時代は「何度駄目なところを注意しても直さない。日本語が通じないのか」と酷評していた今岡誠や大豊泰昭(後に中日移籍)、ダレル・メイ(後に巨人移籍)、坪井(後に日本ハム移籍)ら主力選手、岡田彰布2軍監督との対立・確執した。阪神はOB会が強い権力を持ち、ダッグアウトにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、彼らとの確執もあった。しかし、投手陣では福原忍に大きな期待をかけて重用し、若手で実績が無かった井川慶をエースとして育て、野手陣でも赤星、藤本、沖原、濱中、上坂などの若手を積極的に起用し(赤星、沖原らは野村本人がスカウトとして日本選手権等を視察してピックアップした選手)、矢野輝弘に捕手として大きな影響を与え、桧山をスランプから脱却させるなどの選手育成も見られた。しかし、3年連続最下位。この年のオフ、一度は続投も報じられたものの、沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕された当日に辞任を発表した。このことからヤクルト時代は戦力によって勝てただけと言われたこともある。が後任の星野監督、岡田監督時代の黄金時代を迎えたことにより野村監督の評価も変わり、2006年5月30日、野村は楽天の監督として初めて甲子園球場における阪神戦(交流戦)を迎えたが、選手交代を告げにグラウンドに姿を現す野村を、甲子園の阪神ファンは歓声と拍手で迎えた。 2002年秋から社会人野球チームシダックス野球部監督兼ゼネラルマネージャーに就任。 就任当時のシダックスは弱小チームであり、走者が送球に当たってアウトになるなど凡ミスの連続だったが、野村は持ち前の理論を元にチームを徹底的に改革。また、解説者時代に培った豊富な人脈でキューバ人選手を獲得するなど大型補強を敢行し、チームは野村就任後わずか数ヶ月で社会人野球ベーブルース大会で全国制覇を達成、野村は史上初のプロ・アマ両方での日本一監督となった。このときの選手に、野間口貴彦や武田勝などがいる。 2004年には日本が勝てなかったキューバの五輪金メダルチームに練習試合で完勝し、「シダックスこそが世界最強」とさえも言われた。 この試合では、野村は後にプロ入りする野間口貴彦や武田勝に比べて力が劣ったためにプロ入りできなかった杉本忠という無名のアンダースロー投手を先発させてキューバ打線を完封した。野村はキューバの打者がアンダースローが苦手だと見抜いていた。試合後、野村は「なぜ長嶋ジャパンはアンダースロー投手を代表に入れないのか」と選手選考を批判したという。現在キューバの監督をつとめるパチェコは「野村の野球を日本で吸収した」と語るなど、シダックスで得たものは大きいようである。 2005年9月、楽天は「チームの再構築が必要」などという事情から田尾安志監督を解任。10月3日、社会人日本選手権を最後にシダックス監督を退任するとともに、楽天の監督就任要請を正式に承諾。5年ぶりにプロ野球界に復帰することとなった(3年契約)。日本のプロ野球において70歳代の監督となったのは仰木彬に次いで史上2人目、監督契約としては元太平洋クラブ(現・西武)のレオ・ドローチャーを含め3人目であり、1年間監督を続け仰木の持つ最年長監督記録を更新した。 以前は阪神フロントの確執や沙知代夫人の逮捕などで疲弊していた野村監督だがシダックス監督となりプロ野球選手とは違うアマチュア選手の野球にかける情熱に心を打たれたという。かつては自軍の選手が本塁打を打ってもベンチに座ったまま出てこようとはしなかったが、現在ではベンチから出て選手をハイタッチで出迎えるようになった。野村の発言は「ボヤキ」という一言でくくられるが、現在のプロ野球の問題点に鋭く斬り込んだものがある一方、相手球団の選手・監督を批判することもあるため、「口撃」と称され物議を醸すことが多い。現役時代のエピソードだがオールスター戦の際は試合後選手全員で入浴するのが常だったが、他の選手は皆堂々と前を出しているのに張本だけは常にタオルで股間を隠していた。これが気になってしょうがない野村が洗髪中にいきなりタオルを剥ぎ取ると、動揺した張本は逃げるように風呂場から立ち去った。後年張本にはささやき戦術が全く通用しなかったが、「ハリ、お前は態度がでかいのにナニは小さいの」と野村がこの時の事を揶揄すると、張本は赤面する程に狼狽し効果てきめんだった。ただし次の打席では張本の報復に遭い(前述の空振り殴打)、結局この戦術は1打席しかもたなかった。 現役時代から、付き合い程度でしかゴルフをやらず、ゴルフ場にもほとんど顔を出さない野村だが、1975年オフの球団納会ゴルフにいて「なぜ監督がいるのか?」と江本孟紀が驚いていたが、沙知代夫人を後家さんと煽る江本への阪神へのトレードを通告するためだった。この時に発した言葉は「お前、旅に出てこいや」だった。相変わらず毒舌も度々飛び出す一方だが記者の質問にジョークを返したり、ユーモアを交えて回答するようになったという。テレビ朝日系報道ステーションやフジテレビ系すぽると!などのスポーツニュースでは毎回野村の試合後のコメントが伝えられている。特に田中将大が登板した日のコメントは「マー君、神の子、不思議な子」や「不思議の国のマー君」などと残しており、一部からは人気がある。育成方針も基本的には叩いて伸ばすタイプだが、最近では活躍した選手や、進歩が見られる選手に対しては素直に感謝や賞賛の言葉を贈ることが多くなっているなど、以前とは違った面を見せはじめているという。 2009年の野村監督のスローガンは「氣」精神面を語ったことは一度もないというがWBCで展開したスモールベースボールの礎となったID野球を生み出した野村監督は1500勝という偉業を成し遂げた。岩隈・田中の両エース中村紀を加えた野村楽天はどんな活躍を見せるのか楽しみである。 参考資料:野村克也-wikipedia